Odet Philippe
数年前から、
5月末のメモリアルデーの前日に、
屋根付きシェルターを借りて、
大勢の仲間とポットラックで集まって
ピクニックを催す開催場所になっている、
セーフティーハーバー市のフェリッペ公園の名前の由来は、
この公園がある土地に1840年頃から住み着いた
Odet Philippeだという事は
ピネラスの住民なら知っている人が多いと思いますが、
最近、地元クリアウォーターの
ニュースレターで掲載されていたコラムで、
色々と知らなかったトリビアを学んだので、
この紙面を借りてシェアさせていただきます。
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- Odet Philippe 本人の話(真偽性に欠ける)によると、
彼は1787年Lyon(仏)生まれで、医者と成り、
ナポレオン制下のフランス海軍で医師長として働き、
トラファルガーの戦いで英国軍の捕虜となった後、
バハマ島に追放されて島の病人の世話をしてから、
英国・フランスに二度と足を踏み入れないという条件で、
南カロライナのチャールストンに移住。 - 1807年にDorothe Desmottes と結婚して三人の娘が生まれてから、
四人目の娘の産後にDorotheeは死亡し、
その後、Odetは三人目の娘Septimaの
ゴッドマザー・Marie Charlotte Florenceと再婚。 - チャールストンからIndian River area (現在のFt. Lauderdale)、
キーウエストを経過して、1835年あたりにタンパベイに移住。 - 1840年あたりにOdetは現在のセーフティーハーバーに移住し、先住民Tocobago族の古墳が有る近辺の土地に家を建てて、その家をナポレオンに因んで “St. Helena” と命名。
- 1840年の米国勢調査によると、Philippe一家は、
その当時 Pinellas群を含んだ Hillsborough群の住民として記載され、
この記録によると、同郡内居住の “Heads of Households”(世帯主)の数は、
なんと、たったの20だったそう。 - 原住民から学んだCitrusフルーツ養殖の知識を生かして、
様々な亜熱帯フルーツを育て、
キューバから入手した種子を元にタバコ養育も手がけ、
タンパ最初の葉巻メーカーとして知られています。 - Odetの末娘Melanieは
Seminole Indian Warで戦った軍人のRichard J. Booth と結婚し、
1853年8月に夫婦に生まれた息子(Odet “Keeter” Booth)は、
ピネラス半島初の先住民ではない子供。 - Odet は1869年に死亡し、
家の土地に埋葬されましたが、埋葬場所は不明。 - 皮膚の色が濃かったことから、
フランスでは奴隷として雇われていて、
Heitiやバハマ経由で米国に逃亡し、
過去を偽って居住した、という噂もあるそう。
ページ担当: フィカラかこ