XX 様
震災後に撮影した写真を送信いたします。 高田市内の写真です。
高田市内で避難所に指定されていた場所の大半は、津波に流されました。
市民体育館では、多数避難していましたが、
屋根まで津波が押し寄せました。
市民体育館では、多数避難していましたが、
屋根まで津波が押し寄せました。
三階建てのショッピングセンター(下の写真)では、
屋上に逃げた人だけが救出されました。
屋上に逃げた人だけが救出されました。
市役所も3階まで津波が押し寄せ、屋上に避難した人が翌朝
ヘリコプターで救助されました。
ヘリコプターで救助されました。
親戚の叔父宅(下の写真)も、倉庫のコンクリート部分のみで、
すべて流されました。
すべて流されました。
5 月31 日
陸前高田市立広田小学校避難所内
村上善彦
**************
XX 様
震災後に撮影した写真を送信いたします。
広田半島の入口にある町ですが、大野湾と広田湾が津波でつながり、
一時広田半島が広田島になり、翌日まで、広田に帰ることが
出来ませんでした。
一時広田半島が広田島になり、翌日まで、広田に帰ることが
出来ませんでした。
高田市の住宅の瓦礫や、船・海の養殖施設が大量に集まった所です。
ここでは、多数犠牲者発見され、自衛隊によるガレキ撤去と
行方不明者の捜索が一日も休まず続けられました。
行方不明者の捜索が一日も休まず続けられました。
もうすぐ、三ヶ月になりますが、がれきの撤去作業は、
なかなか進まないです。
なかなか進まないです。
それだけ膨大な量のガレキです。
5月31日
陸前高田市立
広田小学校避難所内
村上善彦
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XX 様
震災後に撮影した写真を送信いたします。
隣りの大船渡市の写真です。
隣りの大船渡市の写真です。
震災当日は、大船渡市で震災に遭いました。
震災当日の行動をお話しいたします。
午前8時: 二男を高田高校まで、車にて送り届ける。
午前9時: 妻と一緒に大船渡に行く。
私はリュウマチ医の病院に行き、妻はショッピングセンター
「マイヤ」本店に行く。 (私の父の依頼でカバンを購入)
「マイヤ」本店に行く。 (私の父の依頼でカバンを購入)
(中央に見える建物がショッピングセンター「マイヤ」
午前10時半: 診察を受ける。
午前11時に処方箋を持って薬局に行く。
午前11時に処方箋を持って薬局に行く。
午後11時半: 妻を迎える。
午後12時38分: 賢(高校生)から迎え依頼の携帯メールが入る。
午後1 2 時4 0 分: 迎えに行く旨の携帯メールを送る。
午後1 時: 高田のショッピングセンター「リプル」に着く。
賢のクラスメート(蒲生君)も一緒に連れて広田に帰る。
賢のクラスメート(蒲生君)も一緒に連れて広田に帰る。
午後1時半: 自宅に着く。 父にカバンを渡すと気に入らず、
返品することになり、私と、妻、淳(大学生)で、大船渡の
マイヤ本店に車で向かう。
返品することになり、私と、妻、淳(大学生)で、大船渡の
マイヤ本店に車で向かう。
午後2時46分: 緊急地震速報で携帯電話がウイウイと鳴り、
同時にラジオから緊急地震速報が始まる。
同時にラジオから緊急地震速報が始まる。
車のスピードを落として左端に車を寄せていると、
凄まじい揺れが襲ってくる。
電柱が左右に激しく揺れて、倒れそうでした。
凄まじい揺れが襲ってくる。
電柱が左右に激しく揺れて、倒れそうでした。
妻が「(電柱が)倒れてくるから、逃げて!」と騒いでいました。
まだ、地震がおさまらないうちに車を動かし、電柱から離れました。
その時の風景は、SF映画のようでした。
すごく長い間、揺れていました。
まだ、地震がおさまらないうちに車を動かし、電柱から離れました。
その時の風景は、SF映画のようでした。
すごく長い間、揺れていました。
その後すぐ津波が来ると思い、大船渡の高台(県立大船渡病院)を
めざして車で逃げました。
めざして車で逃げました。
(県立大船渡病院から市内を眺望。 眼下に津波が町全体を
呑み込む不気味な光景が見えています。)
途中周りを見ると、人々が家から外に出て
道路に座り込んでいる姿をたくさん見ました。
道路に座り込んでいる姿をたくさん見ました。
本当に凄まじい地震でした。
震度6強でしたが、震度7に近いと思います。
震度7が記録された場所が、すぐそばでしたから。
震度7が記録された場所が、すぐそばでしたから。
午後3時頃: 大船渡病院に到着。
大船渡病院では緊急体制の準備が既に始まっており、
受け入れ態勢をとっていました。
大船渡病院では緊急体制の準備が既に始まっており、
受け入れ態勢をとっていました。
(次月号に続く)
レイアウト担当: フィカラかこ